セレモニーピアニストの日々

片山健太郎

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[年代別]献奏でご要望の高い曲[90代以上](1)

投稿日:2018年12月16日

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さて、ここからは、年代別に献奏で要望の高い曲をピックアップしてゆきます。

歌は世につれ世は歌につれ。誰しも、その生涯の青春時代、すなわち10代後半から20代の中で出会った曲が、その人にとっての生涯の愛唱歌になるケースが多いと思います。今回取り上げる90歳代以上の方が青春を送ったのは、今から70年以上前、1940年代、昭和15〜25年頃となります。

ここまで書いて、少々感慨を禁じ得ないのは、90代の方の愛唱歌が戦後歌謡になりつつあると言う事。私が献奏を手がけた15年前は、80代以上であれば、戦前の昭和歌謡や童謡唱歌、軍歌などをよく演奏したのですが、最近は童謡唱歌を除いて、戦前の曲については、演奏の機会がめっきり減っています。これもまた「歌は世につれ・・・」と言って良いのでしょうか?

太平洋戦争を挟んで、世の中の環境は激変したそうですが、それは音楽の世界でも同じだったようです。まずは戦前編から取り上げようと思います。戦前に青春を送った方の年代は、90代後半から100歳代にかけて。この頃は、まだ現在のように流行り廃りが目まぐるしく無く、同じ曲が10年以上流行することも稀ではありませんでした。ですから、この時代の曲は、90代より下の世代の方にも親しまれたかと思います。

※文中の敬称は略させて頂きます。

東海林太郎「赤城の子守唄」

戦前戦後と活躍した昭和の大歌手ですが、「名月赤城山」「麦と兵隊」など、ヒット曲は戦前に集中しています。また、日本で初めて「音楽葬(無宗教葬)」を執り行った有名人でもあります。東海林太郎へのリクエストは、以前は頻繁に頂戴しましたが、このところは減ってきております。リクエストを受ける場合は、「東海林太郎の曲で」と言う漠然としたものが殆どで、「東海林太郎のこの曲で」と曲指定を受ける事は稀です。この頃にはまだ「演歌」と言う概念がなく、西洋の音律に当てはめた和音階が、やがて演歌に繋がっていく過渡を感じます。
(1934年/昭和9年/佐藤惣之助:詞/竹岡信幸:曲)

ディック・ミネ「人生の並木路」

東海林太郎とは違い、こちらははっきりと「人生の並木路」と曲指定でリクエストを受ける事が多いです。「泣くな妹よ、妹よ泣くな」と言う歌い出しは有名です。兄妹が離れ離れになる時の別離の情を歌ったものですが、移動や通信が発達した現代では、この歌の「重み」と言うのがなかなか理解しづらいですね。かく言う私もその一人です。ディック・ミネについては、戦後に発表された「夜霧のブルース」も、リクエストを頂く事があります。この曲以降、昭和歌謡に「夜霧の・・・」と言うタイトルの曲がいくつも生まれましたが、その嚆矢となった曲でもあります。
(1937年/昭和12年/佐藤惣之助:詞/古賀政男:曲)

山口淑子(李香蘭)「蘇州夜曲」

こちらも戦前の歌謡曲ですが、上記の2曲に比べると、テレビCMに使われたり、現代の多くの歌手にカバーされたりしている事もあり、若い世代にもよく知られた曲になっています。詞も曲も歌手も日本人、純粋な和製歌謡曲ですが、同時期に流行した「支那の夜」と共に、異国情緒たっぷりの曲として親しまれています。作曲者の服部良一は同時代の古賀政男と並ぶ日本の昭和歌謡の第一人者ですが、古賀メロディーが、日本の伝統音楽からのルーツを感じるのとは対照的に、服部メロディーは西洋音楽、特にジャズから影響を受けた「ハイカラ」なものが多いですね。
(1940年/昭和15年/西條八十:詞/服部良一:曲)

軍歌「同期の桜」

軍歌。私が献奏を手がけた15年前には、頻繁にリクエストを受けましたが、近頃ではめっきり少なくなりました。私事ですが、私の祖父(明治45年生)は軍歌が大好きで、私の幼少の時分によく聞かされた記憶があります。子供心には勇ましくリズミカルで非常に好きだったのですが、ちょうど団塊世代に当たる私の母は、軍歌を大変毛嫌いしていましたので、少しでも私が鼻歌で歌おうものなら、露骨に嫌な顔をされたものでした。他に「ラバウル小唄」「月月火水木金金」などのリクエストもありましたが、ダントツに多かったのは、この「同期の桜」でした。軍歌のリクエストの減少は、太平洋戦争を肌身で経験した世代の減少と比例しています。
(1938年/昭和13年/西條八十・帖佐裕ほか:詞/大村能章:曲)

高峰三枝子「湖畔の宿」

最初の発表は日中戦争のさなかですが、太平洋戦争時、日本政府がレコードの発売を禁じたにも関わらず、軍人らによってよく歌われ、高峰自身も前線への慰問でよく歌ったとのことです。ゆるやかで哀愁の漂う中に、凛とした強さを持つメロディーは、セレモニーでの演奏にふさわしい雰囲気を持っています。高峰三枝子は戦後も芸能界の第一線で活躍し、お茶の間にも頻繁に登場したそうですから、戦中、戦後生まれの世代にとっても馴染みの深い存在だったのでしょう。この曲は70代、80代の故人様のリクエストとしても度々演奏致しております。言葉がいささか軽いですが、息の長いヒット曲、とも言えるでしょう。
(1940年/昭和15年/佐藤惣之助:詞/服部良一:曲)

次回は、戦後編を取り上げます。

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